たとえ違和感や居心地の悪さを感じてもその環境から逃れられない場合、感覚を鈍くしてその場を凌ぐというのは、実は私たちが無意識によくやっていることではないだろうか。
おそらくそれは、人間である前に生き物として備わった生存本能なんだと思う。環境に適応できないと生きていけないのは全ての生き物の性である。自分に厳しい方は特に、違和感の原因を外ではなく内に見出だして我慢してしまうことが多い気がする。もともと感覚過敏がある方などは、日常がそれとの闘いだろう。
- - - - - - - -
きっかけさえあれば、違和感に対するアンテナはどんどん鈍ってしまう。鈍さが鈍さを生み、曖昧な状態に馴れてしまうと、自分を疲弊させる物事と関わり続けて消耗していることにも気づけなかったりするのだろう。
なによりも「自分の感覚を信用できない」と「自分を信用できない」は、暗いところでそっと手をつないでいる感じがする。
そんな部分も含めて唯一無二で、魅力的ではあるけれど。
- - - - - - - -
イールドのセッションで感覚を訊ねられることに、最初は戸惑いがあるかもしれない。そもそも感覚を訊かれるなんて、普段滅多にないことだと思われる。
時間がかかってもいいから、今自分が感じることや体の状態を拾うことに静かに集中する時間は、たとえすっかり忘れていたとしてもそこにあったような、かすかだけど確かで豊かなものを含んでいる気がしてならない。
ただ生き物として存在し合う侵害性のない場で、ただお互いに自由に、自分の感覚を最優先させる。頼りないように思える感覚でも、気のせいにせず、無理に形を与えようとせずにプラクティショナーに伝えてみる。
それは、身体や自分自身と繋がりなおす最初の扉かもしれません。
Comments